猫好きダイアリー

no cat no life

嫌なことを嫌だということ。


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何年も前から私が目指してきたことは、

たくさんのお金を手にすることでも、

素晴らしい肩書を得ることでもなくて、

 

自分のやりたいことを見極め、

今の自分を受け入れ、

意見の合わない人も受け入れ、

でも受け入れられなくて苦しい時はきちんと距離を取り、

 

なにより、

嫌なことを嫌だと言えること。

 

というか、とにかくそれだったと思います。

 

今でも嫌だと言うことには勇気がいるし、

ニュートラルにフラットに、

とはいかない。

だって嫌なことなんだものね。

 

それでも昔に比べれば大分言っている。

 

同僚にもそう言われるくらい。

そしてそれを「私の長所です」と言えるところまで来た。

 

なにより仲が良くても言っている、

というかむしろ仲が良ければ良いほど、

ちゃんと言うを大事にしている。

 

これは私の体験から来る判断です。

 

だから私は一見ほがらか調だけど、

譲らないところは譲らない。

譲らないことで人とうまくいかないなら、

またそれもヨシという価値観で。

 

嫌なことを嫌だということは、

それは私の正義を押し付けることを目的としているのではないのです。

 

また、仕事とか家族とかどうしても続いていくものは、なるべく言うようにするけれど、

単なる人間関係なら、

なんなら別に嫌だと言わなくて、

そっと離れることも多々ある。

 

仕事だと各自が更新するものが、項目が欠けてるとか、そもそもされていないとか、

入力するルールに沿ってないとか不足してるとか、

そういうのは小さなストレスになること。

 

別に私がそこを綺麗にしてもいいけど、

「なんで私が!」ってちょっとでも思いそうなことはなるべくやらないようにして、

みんなにちゃんと伝える。

 

嫌なことを嫌だと言うのは、例えばそういうことです。

とんでもないことをいつも言っているわけではない。笑

 

ただやるべきことをやってないとか、

そういう時に、

小さなことだと我慢したことが消化できればいいけど、

私は全然そうじゃなくて怒りを溜め込んでしまうから、

それを小出しにして行くってことです。

 

うん、実際は伝える方が実は面倒だったり、大変だったりします。

だから我慢して一人で対処してたのがこれまでの私。

 

でも言わないとわからない。

どうにかしたいなら、絶対に自分で言わなければならない。

 

それに気がついたのは家族との関係で、

ずっと嫌だったけど言うのを諦めて、

黙って一人で我慢して苦しんでいたこと。

 

でもそれは、相手からしたら、

「私がこの状態を受け入れている」

ように見えることだったんだなと。

 

で、去年、それはもう本気で(キレて。笑)伝えて以来、

そのことに悩まなくても良くなりました。

 

たぶん、私が本気の本気だったから。

 

更に他にも私は、

ずっと言いたくて言ってなかったことを、

言う機会に見舞われ(恵まれたというより見舞われた)、

全身全霊で伝えました。

 

ただもうそれは、

家族との縁を切っても構わないという、

それくらいの、

覚悟の上でのことでした。

 

何十年も家族に愛されたいから我慢していたのに、

もう愛されなくて構わない!!

そんな我慢の上にしか成り立たないもの、

もう要るもんか!!!

という、覚悟の上でのことでした。

 

そこが、私にとって、最大に勇気が必要だったところ。

 

私がそうしたことで、

相手が我慢しているのかどうかは分からない。

 

そう、分かり合ったわけではないと思うのです。 

 

私は分かり合うことを目的として言っているのではないのかもしれない。

 

けれど我慢したり受け入れることを頑張っても、

相手がそこを考慮してくれたりするどころか、

「それで当たり前」と思われたくないから、

言っているというという側面も大いにある。

 

うん、そうかも。

言って分かり合えなくても全然良くて、

いつでもその関係性を終わらせる覚悟を持っている。

 

前はここに「繋がり続けるために」という一本道しかなかったけど。

 

それに言うことでむしろ 関係性が悪化するという体験も存分にしているから、

「これを伝えるほどの価値がある関係なのかどうか」というところであえて言わないこともある。

 

これらのことを、こんな風に一生懸命に取り組んだりしなくても、

そもそもちゃんと言える人や、むしろ言い過ぎる人もたくさんいると思う。

 

 でも私は頑張って頑張って、やっとここ。

 

だけど最近「ちゃんと言いますもんね」

というフィードバックを貰うようになって、

「そういう自分を実践出来てるんだなー」と思えるようになった。

 

NLPを学んで伝える幅や、表現の幅が広がったことも大きいかもしれないです。

もう私自身と一体化してしまって、何がNLPから来ているものか、よくわからなくなるほどしみついてしまったけれど。笑

 

この数年間で、

なーーーんにも手にしてないように見えるけれど、

でもそうじゃないんだよなあって思えたので、

書き記しておこうと思いました。

 

年始に見た「湯を沸かすほど熱い愛」という映画も、要素の一つは「ちゃんと言う」だと思いました。

 

言うべき時に、

言わなければならない相手に、

勇気をだして「ちゃんと言う」。

 

誰か他の人に、誰か優しい人に、

愚痴を言うのではなくて。

批判を言うのではなくて。

 

私が生まれてからずっとこれまで、真正面から取り組まなければならなかったテーマの様な気がしています。