私の中のワガママな彼女。
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自分でも気づかない間に「いつの間にかそうなっていた」「いつの間にかそう考えるようになっていた」ということを感じる。
知らず知らず、そのことを受け入れ、その価値観がいいと思って過ごしていたんだと言うことを、全盛期違う環境や人に触れたり、質問をされることで気付いたりするのだと思う。
だからやっぱり出会いは重要で、目の前の人はむしろ、私がどんな人かを教えてくれる存在だ。
だから「もうイヤだ!」と思う環境の中にも、愛しさが詰まっていたり。
それはそこを構成する要素はいろいろだから。
いろいろの中に想いもいろいろ詰まっている。
一つの出来事の中にもいろいろ詰まっている。
良い悪いに振り分けきれないもの。
今は「我慢しなかったらどうなるんだろう」を人生を使って実験中(笑)
だけど我慢癖、え?と思っても発言を控える反射的な反応がすっかり身についてしまっているおかげで、同じようなプログラムを辿ってしまうことがある。
その時は深呼吸して軌道修正。
こんな風に自分ですら気づけていない自己認識ってたくさんあるような気がするし(そこをハッキリ私はこう!って言える人もいて、憧れるけど)自分のほんとうを見つめ続けて、そこに忠実に要るのって、実はかなり注意深く過ごさなくちゃならない。
私がそれを禁止してきたからなだけかもしれないけど。
そのまんまでいることが普通な人ももちろんいて、そうだったら良かったのにとないものねだりする。
なあなあにしてきた身からすると、それってすごいめんどくさいこと……かもと感じる。
だから適当にしていたのかもね。
そんなんじゃやってけないよ!
そんな夢みたいなこと言ってるんじゃないよ!
ワガママ言うんじゃないよ!
みんな我慢してるんだよ!
ってどこか自分をdisるみたいなことが、繰り返し繰り返し行われてきたのかも。
つまりそれは、もとを辿ると親から伝わってきたファミリービリーフみたいなものなんだけど。
自分の想いにちゃんと応えてあげることって、自分の想いに忠実でいることってワガママな彼女に付き合う彼氏みたいな気持ちになる(笑)
私の中にいくつもの考え方があって、極めて理性的で現実的な面と、ハチャメチャに夢見がちな面とがあるからかな。
でもその彼女が居心地良くしてるっぽい時が、私が幸せな時なんだろうと思う。