猫好きダイアリー

no cat no life

祈り。


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私から見るとその人は、

ものすごく清楚な雰囲気で、

大きな瞳に、

誰しもが「美人」と思うような佇まいで、

上品に見えた。

 

素敵な肩書と、

華やかな仕事をして、

姉妹仲良く、

誠実で幸せで性格も良い。

 

大きなダイヤのついた指輪をつけて、

微笑む彼女はキラキラまぶしく、

旦那さんは有名人で、

すぐにかわいい子供にも恵まれ、

私にないものをすべて持っている人のように見えた。

 

まさに「完全無欠」という言葉が似合うような、

女性が羨むようなものを、

それのほとんどすべてを持っているような、

でもそれもそうだろうなと納得してしまうようなそんな人だった。

 

そんな人に「見えた」。

 

亡くなってからも、

彼女がありとあらゆる人に愛されていることが、

伝わってくる。

 

私もずっとブログを読んでいたから、

ここ最近のブログに写る彼女を見て、

その時が近いことを、

どこかで感じていたけど、

でもその時が来たら、

想像していたよりもショックを受けていて、

それが何故なんだろうと思った。

 

若いから?

あんなに素敵な人なのに?

自分と年齢が近いから?

 

どれも違うような気がして、

よくわからない。

 

私は彼女が生きてきた中で得たものの、

ほとんどを持つことはないまま、

人生を終えるかもしれないけれど、

いままだ「人生をやり直そう」と思えるほどには健康であり、

それが許されているこの時間が、

とても有り難いものだなと思えて、

そしてそれこそが、

彼女が欲しかったものかもしれない、

と思えた。

 

人が生まれるからには、

絶対に死ぬし、

人の致死率は100%。

 

若くして死ぬという意味では、

私のいとこは、

白血病で十代で亡くなりました。

 

だからそういうことは、

見えてないだけで、

知らないだけで、

たくさんのエピソードがあるのだと思う。

 

いろんな人がいて、

いろんなことがあって、

私にも「絶対に再発したくない」と思う病気もあったりして。

 

人が持っているもの、

持ってないもの、

欲しがったり要らないと思ったり、

時に羨んだりしながら、

私が価値がないと思っているものも、

他の人から見たら欲しいものかもしれないし、

私が欲しがっているものも、

その人は要らないと思っているものかもしれない。

 

当たり前に思う痛みのない身体や、

当たり前に思う自由に動かせる身体も、

失って初めてその有り難みに気付く。

 

だから私は今、自分の身体を全く過信してなくて、

すぐに何か起きるかもしれないと思ってしまうし、

だからアーユルヴェーダに倣って身体をケアしたりして、

少しでも健やかにいられるようにしているのだと思う。

その辛さを人生の早い段階に知ったことは、

幸いだったのかもしれない。

 

毎日「夢だったら良いのに」と思って目覚めたあの日々が、

今となっては私を支える価値観となるものだ。

 

それがあるからいつも物事に限りがあることに、

思いを馳せられる。

 

彼女のご冥福をお祈りするとともに、

大切な人を失うという体験をされたすべての方々の痛みを思って、

今日は祈りたいと思います。